島原街道 島原~堂崎① S氏との二人行

今回の島原街道踏破は3日で踏破する計画とした、起点を島原市において南目道、西目道、北目道を経て終着点は島原城下に戻ってのゴールとした。(本来なら愛野番所を起点・終点とすべきだが、ゴールして祝杯も挙げられないのでw)。
初日の目標を西目道入り口の北有馬か原城辺りにしておいた。何等か厳しいときには、西有家(島原そうめんの主要産地)の南島原庁舎までと考えていたが、今回は二人行となったので、安全を期して、更に手前の堂崎郵便局とし、約20キロの踏破に変更した。
二人行となるのは実は今回が二人目で、殆どの方は約束しても直前に「すみません、急用が・・・キャンセル・・・」と連絡が入る通常パターン。「分かりました、是非次回に!」(大丈夫です。想定通り笑)と答えるのだが、S社長は多忙にも拘らずで、お断りの連絡が無かった。
決行当日は大手門(福岡ではない。)近くのホテルに投宿した。約束の時間(AM8時)の少し前に旧街道沿いのS氏邸に迎えに行くと、既に準備され、待機されておられたので、ご家族に挨拶して早めの出発となった。
一緒に裁判所の東側にある道標まで行き、手を合わせ旅程の無事を祈る。道標には「島原城大手門跡」と標示とされていた。

【2025コメント 大きな街道の起点では道路元標があるが、今まではこの道路元票で旅程の無事を祈願するのがお約束である。日本橋三越前の東京市道路元標、大坂北浜高麗橋の里程原標、豊前小倉の常盤橋などは有名だ。】
大手口からアーケードに入り、商店街の中を歩いていく。左手の旧堀部邸前を過ぎ、アーケードがクランク状になる場所で右折する。そのまま町屋敷が並ぶ街道サイズの道へ出て左折、南下していく。
S氏が、右折の際、怪訝な顔をされたのが不思議であったが、あとで調べてみるとアーケードをそのまま行き、涅槃像のある道を右折する紀行文もあり、S氏の会社のすぐ傍でもあることからその辺りもご存じであったと思う。確かにお約束の酒造場もあった。
道は左にカーブし、行き止まるようになるが、右側の広い県道を横切り、街道サイズの山裾へ向かう道へ入っていく。
右手の白土湖は島原大変時に出来た湖である。眉山が崩落した際に多数の湧き水が噴出して出来た一夜城ならぬ一夜湖である。この辺りの地名、崩(くえ)山が往時の状況を物語るようだ。

旧道らしき道を進んでゆくと、今村刑場跡が左手に見えてきた。明治3年までに多くの囚人が処刑されたということである。イタリア人宣教師の火刑はじめキリシタン信徒達も犠牲になった。当時の禁教の経過はイエズス会との貿易メリットの兼ね合いで秀吉以降、数次に強化され、江戸幕府になって本格的になり、島原の乱に繋がってゆく。
街道沿いあるあるで、必ず刑場跡がある。江戸の鈴ヶ森刑場は北品川の旧東海道を南下していくと、京急立会川駅近くにある。八百屋お七などが処刑されていて、処刑場に向かう囚人を親近者が見送った泪(涙)橋と呼ばれている橋が近くにある。
奥州(日光)街道にも南千住の小塚原刑場、安政の大獄吉田松陰、橋本佐内などの墓がある。ここも近くの泪(涙)橋が有名で、あの人気漫画「明日のジョー」の丹下ジムはこの橋の下にある設定だ。
話は街道に戻り、そのまま直進すると、山にぶつかる感じで温泉に行く道と上るような旧道に分岐する。この上りの道に入るとすぐに、ほぼ車が通らない林道となる。林の中を歩き続けると再び住宅が少しずつ増えてきて、やがて団地傍らしきところを通って行く。道は細くなり、アップダウンと右左折を繰り返して旧道を見失ってしまったが、何とか雲仙、小浜に向かう国道に出てきた。

ここで道を間違った。国道に出る道が一本東側になってしまった。戻らずに国道を越え、小学校のわきを通り、途中で農道を左折して旧道へ復帰、川の傍の焼き肉屋の前を通って南下を続けた。
S氏は私が道を間違っても、すべてノークレーム、お任せという感じ。橋を渡り、南島原市へ入る。橋の名前は茶屋橋ということで街道上に間違いない。右手には平成新山の溶岩ドーム群が聳え立つ。この川に火砕流、土石流が轟音と共に流れ落ちて行ったに違いない

旧道は畑で悉く遮断されており、海側に左折・直進を繰り返しながら南下していく。国道に合流後、しばらくして瀬野追分となる。ここが寸断される前の本来の旧道の分岐点だった。新旧の二つの道標があり、古い方が追分碑で、左志まばら道(島原道)、右せ乃(瀬野)とある。新しい碑には「島原町」とある。町村制施行は明治22年である。

ここで、ふとS氏を見るといい調子で進んでいる、安心した。
瀬野追分を過ぎてしばらく進んで、再び国道と分岐し旧道へ、左手には諏訪神社が見える。街道サイズの道を進み、経過時間が予定通りなのでここでS氏にサインを送り、現代版茶屋に入る。現代版茶屋は街道から左手に少し入ったホテルの一階にあるカフェで、オープン間もない感じだったが、愛想よく対応して頂いて、二人ともお約束の甘めの飲料を注文した。
S氏は顔も広く、出発したときからすれ違う方から次々に声掛けされていたが、もう島原市街からだいぶん南に進んで来たと思うが、なお変らぬ人気ぶりだ。ホテルの方も知り合いらしく、S氏の見慣れないリュック姿に、「何をしているんですか?」と声をかけられていた。
茶屋を出て、街道に戻ると、左手郵便局前に旧深江村の道路元票があった。従って、この場所が元役場の所在地に間違いない。

南進し、広い道路を超え深江城跡を右に見ながら直進して行く。深江城安富氏は有馬氏、龍造寺氏との権力闘争の狭間で存在感を示していたが、沖田縄手の戦いの後、佐賀の鍋島勢のもとに落ちのびていった。深江川を超え、島原鉄道跡地を超えると前面に緩やかな勾配の先にやや急な坂道が続くのが見えた。ここから平之坂が始まる。
旧道サイズの緩やかな坂道に入るが、S氏は元気だ。黙々と進まれている。途中から本格的な登りの道になり、登り切ったところに飯野部落があり、はずれに神社鳥居とその裏に小学校があった。S氏は幼いとき来たことがあるそうで懐かしそうにされていた。
小学校を回りこむようにして、一気に下っていく。下ったところにアーチ状の新川眼鏡橋があり、氏が先に見つけて教えてくれた。

眼鏡橋を超えて少し登ると布津断層に直面した。けもの道の入り口に「殿様道路の石畳」という標識があり、ここが街道に間違いない。石畳というか、見るからに草茫々のやぶかきでやや戦意喪失。

S氏に、「遠回りですが、海側から回り込むコースにしましょうか。」
と話すと、
「いや、ここを行きましょう。」
初めて強烈な自己主張、逆に決断を促された。搦め手からではなく、正面突破作戦に。

地図コースからは若干外れているようだが、間違いなく道らしき跡があり、上りつつ何とかやぶかき続けているうちに穏やかな林道に出て、しばらく進むと県道に出てきた。
一人だったら分からないな、撤退はないとしても転進したかもしれないと思いながら、二人行のメリットもあるものだなと考えつつ、S氏の精神にリスペクト。きっと強力なハードルが出現しても毅然として超えて行かれることだろう。
私も鍋島藩の葉隠れの後裔後継ではあるが、古武士のような父と違い、庶民の母方の血が強いような 笑。
草藪掻き分けて県道に出て三本松を過ぎて右折、東進、布津庁舎の方へ進んでいった。
国道に沿った中通りに左折するタイミングで、S氏に「もう12時過ぎているので、食事を摂りましょうか?」と提案すると即行同意。
ここは国道も近く、食事のある店を探すチャンスだ。国道までおりて飲食店を探していると、海側にから揚げ看板の店が見えたが、S氏は、そこより、少し南側、国道沿いの山側にある店に足が向かっている。ここはお任せして、これまでになかったS氏の力強い行軍にただ付いていくばかりだったが、店に着くと、あれ、本日定休日!
S氏のあの残念そうな顔は今でも忘れられない。きっと脳内胃袋はラーメンと炒飯で満たされていたに違いない。諦めて、から揚げの店にバック。客も多かったがなんとか座れた。味もレベルの高い店だった。中生(ビール)!とのど元まで出かかったが、二人行の故、断念。

店を出ると13時過ぎだ。すぐに旧道へ復帰。左手にキリシタン墓地、S氏は、ここは全く知らなかったと話されていた。熊野社過ぎて圓通寺へ。近くに佐用姫の石碑があった。佐用姫伝説はここ以外にも各地にあるようだ。生地と言われる厳木、舞台となった鏡山には取材で訪問したことがある。
坊主坂を超えてしばらくすると町境を超えて有家町に入る。川を超えて進んで行くと、旧商店街のような光景となった。市街地になり、やがて郵便局が見えた。「今日はここでゴールにしましょう。」と声をかけるとS氏の嬉しそうな顔が見えた。


浜沿いの国道側に出て、コンビニ店からアイスを買って二人で路肩に腰かけて食べながら今日の総括。島原行きのバスを待った。到着時間は14時前だったので、これやったら西有家まで楽にいけたかな?まあ最初で固く行ったからな。次回は加津佐海水浴場、山道へアクセスする地点までにしよう。など独り考えつつ、島原港でバスを降り、大手まで行かれるS氏とお別れした。
(エピローグ)
S氏と次回の行軍も約束していたが、突然、翌年2月に急逝されてしまった。不謹慎な表現かもしれないが、この街道歩きは私個人的にはS氏との最後のいい思い出となった。合掌
(続く)

